正込 健一朗
私は、約20年前に、現在の現代文化学サブプログラムに在籍し、現代思想の研究を行っていました。現在は、地元の鹿児島県で弁護士として小さな法律事務所を経営しています。
こう書くと、思えば遠くへ来たものだと思わず溜息が漏れます。
振り返ると、大学院での学びの時間は、私にとって、何ものにも代えがたい貴重な財産であり、青春の最後の一コマです。当時大学院でともに学んだ仲間達のほとんどは、研究職に就いています。私も当然そのつもりで大学院に進学しました。
しかし、私は結果として違う道を選びました。当時は30歳までに定職に就かなければという思い込みがあったのですが、自分の能力と業績などを考えたとき、30歳までに研究職に就ける具体的なイメージが持てませんでした。なので、修士論文を書いた後、当時制度が始まったばかりの法科大学院に進学することを決め、司法修習生として30歳を迎え、現在に至ります。
そうすると、修士課程での研究は無駄だったように思われるかもしれません。
私の場合、修士課程で自分の興味関心のある分野に思う存分集中できたことが、法律という興味はないけれども学ぶ必要性のある分野で身を立てる基礎になっています。
修士課程での研究は、読んで、理解して、調べて、考えて、書いて、発表するという一連のプロセスですが、これを通じて養われる能力というのは、目には見えないけれども、今の仕事をするうえで、もっと言えば人生を生き抜くための、とても大きな財産になっています。
例えば、私の見るところ、司法試験受験生の中にも、自分が理解していることを文章にすることができない人が一定数います。私は、なぜこの人達は分かっていることが答案に書けないのか、とても不思議でした。
私がそこで躓かなかったのは、肌理細かい指導を受けながら研究論文を書くという恵まれた経験があったからだろうと思っています。
また、大学時代の友人の多くは企業で働いているのですが、話を聞いていると、日本の企業は一般に想像されているより、人を育てることに興味がありません。みんな、自分で勉強しています。でも、そのためには、自分で学ぶためのノウハウが必要です。それを効率よく身につける方法のひとつが、大学院での研究ではないかと思います。
では、大学院、特に修士課程で学ぶことにデメリットはないのか。
もちろん、時間と労力と費用というコストはかかります。しかし、好きなことに全力で集中する2年間が保証されているだけで、リターンは十分だと思います。
加えて、上述のとおり、研究を通じて、これから人生100年時代を生きていく基礎を養うことができます。修士号自体は何も生みませんが(個人的には修士号を持っていることで得をした経験は今のところありません。)、そこまでのプロセスは確実に自分の力になります。
自分の10年間(長いですね)の学生時代を振り返って、修士課程の2年間(特に最後の1年間)ほど、集中してかつ楽しく勉強したことはありません。弁護士という仕事を始めて十数年経ち、様々な事件を経験しましたが、修士論文の締切直前と同じレベルまで追い詰められたこともありません。まだ、あの頃の貯金で食べているような気がします。20年間価値が落ちない財産って、考えてみるとなかなか凄いですね。
この文章は、これから大学院への進学を考えている皆さんに、修了生として本音を伝えるという趣旨で書いています。私は皆さんがとてもうらやましいです。今から、あの素晴らしい日々が始まるのだから。
このプログラムで学んだ皆さんの活躍に触れる日を楽しみにしています。
以上
令和3年1月6日